0か1か~「デジタル人間」と「芸術」
前の「こぼればなし」から一年半(!)も経っていることに驚愕いたしました。
その間に私は結婚し、生活スタイルも……言うほど変わってませんでした(笑)
依然として感染症禍は続いてはいますが、ようやっと少し小康状態になりましたね。
ここのところ「SNS疲れ」とも言うべき症状が出ており、Twitterもほぼほぼ飯テロ製造機に成り果て、インスタグラムやフェイスブックに至っては更新すらせず、そしてこのホームページもほとんど機能を止めてしまっておりました。最後のはSNS関係ないですね。
そこかしこで「○○vs△△」という構図が出来ていて、それが可視化されているのが「SNS疲れ」の原因の一つと思われます。ちょっと閉塞した、鬱屈したこの社会情勢下で、一種の憂さ晴らしのように「反対するものは駆逐せよ」とも言わんばかりの激しい論争が通っているのに耐えられないのです。
意見ははっきりと主張すべき、という考え方があります。間違ってはいないですし、正しいことだと思います。しかし「0か1か」のデジタルでしか話ができないことは、互いを疲弊させるだけでしょう。
人間ですから、0.5だっていいじゃないですか。もっと言えば0.2だって0.8だって良いわけです。それらをアナログ的にすり合わせていくのが人間社会の生き方なんじゃないかと思います。
どうしても「0」にしかなれない人と、どうしても「1」にしかなれない人は、そもそも共存が難しいのですから、双方離れてしまえばいいのです。互いに干渉できない領域まで。今の社会ではそれらを無理に共存させようとした結果、無意味な(と書くと語弊があるかもしれませんが)衝突が生まれて余計な対立を生んでいるように見えて仕方ありません。
音楽をはじめとする芸術ではどうでしょうか。芸術でももちろん「0」や「1」を表現することがあります。しかし「0」や「1」を表現するときに限らず、表現するという行為や、表現した結果についてはきちんと責任を負うのが筋ではないか、と考えます。忖度する必要は無いと思いますが、その表現を行ったことによる利益・不利益は全て負う覚悟でなければ表現者としての資格はありません。
ましてや「○○という意見のもとにゲイジュツを行っているんだから、これを批判するのは○○という意見に反しているのと同じだ!」という主張は論外です。それは「○○という意見」を盾に自己の表現をしているだけです。「芸術」を標榜するのであれば、なぜ批判されるのか、例えば表現の方法が稚拙だから、あるいは過激だから、あるいはそれ以外の理由から批判されるのかをきちんと分析せねばなりません。
そこを乗り越えて、例えば「○○という意見」に反対な人にも、その意見や芸術に賛同するかは別としてきちんと響くようなものこそ「芸術」なのではないでしょうか。
ところで私の曲が長すぎる、という意見がたまにありますが、長い曲だから嫌がられるのか、はたまた私の曲だから嫌がられるのか、どっちなんでしょう。長い曲だから嫌がる方は「マタイ受難曲」とかマーラーの交響曲とかにも文句を言うのでしょうか。え?私の曲にはそこまでの構成力がない?
……失礼いたしました。でも歌劇「渋沢平九郎」はぜひ聴いてね。2時間あるけど。
(写真:宮古島から北を望む 2021年10月撮影)
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